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「念佛」

 みなさま、「念佛」と申しますと、何を思い浮かべますか(間)。やはり、「南無阿弥陀佛」でしょうか。

 文字だけ見ますれば「佛を念ずる=思う」ということですから、阿弥陀さん専用というわけでもなさそうです。実際、法華経には、「お釈迦様を思う」という意味での「念佛」が5か所あります。

 〈方便品第二〉
以深心念佛 修持浄戒故 此等聞得佛 大喜充?(*)身
「深心(じんしん)に佛を念じ、浄戒を修持するを以ての故に、此(こ)れら佛を得べし」と聞いて、大喜(だいき) 身(み)に充?(*)(じゅうへん)す
「佛を念じ、清らかな戒を持つ人は、佛になれる」と聞いて、大喜びした。
((*)「編」の いとへん を ぎょうにんべん に)

 〈法師品第十〉
若説此経時 有人悪口罵 加刀杖瓦石 念佛故応忍
若し此の経を説かん時、人有って悪口し罵(ののし)り、刀杖・瓦石を加うとも、佛を念ずるが故に忍ぶ応(べ)し
法華経を説こうとしたとき、ののしられたり暴力をふるわれたとしても、お釈迦様を思い出して堪え忍びなさい。

 〈勧持品第十三〉
如是等衆悪 念佛告敕故
是くの如き等(ら)の衆悪(しゅあく)も佛の告敕(ごうちょく)を念(おも)うが故に、皆(みな)當(まさ)に是(こ)の事(じ)を忍ぶべし。
このような(悪口を言われたり、追い出されたり)しても、お釈迦様が述べたことを思い出して、堪え忍びなさい。

 〈安楽行品第十四〉
不独入佗家 若有因縁 須独入時 但一心念佛
独(ひとり)他の家に入(い)らざれ。若し因縁あって独(ひとり)入(い)ることを須(もち)いん時は但一心に佛を念ぜよ。
一人で他人の家に入ってはいけません。もし、理由があって入るときは、お釈迦様のことを絶えず思いなさい。

 〈同〉
入里乞食 将一比丘 若無比丘 一心念佛
里に入って乞食せんには、一(ひと)りの比丘を将(ひき)いよ。若し比丘なくんば、一心に佛を念ぜよ。
人々のいるところに行って食べものをもらおうとするときは、仲間を連れて行きなさい。もし単独ならば、お釈迦様のことを一心に思いなさい。

…と、いうような具合です。
(訓読は注1より)


 もちろん、「南無阿弥陀佛」と唱える方々が大事にしているお経にも「念佛」という文字は出てきます。

 例えば、『佛説阿弥陀経』…2千文字弱のお経です。如来寿量品全て(「自我得佛来」ではなく、「爾時佛告諸菩薩」から始まるという意)が2千文字ちょっとなので、「如来寿量品より文字数が一割くらい少ないお経」と言えます…には、
極楽では、
・鳥の鳴き声が教えを説いており、それを聞いた人は、念佛、念法、念僧する
・宝物が音を出し、それを聞いた人は、念佛、念法、念僧の心を生ずる
と説いています。

 今、「極楽」と言いましたが、「極楽という場所があって、そこに阿弥陀さんが住んでいる」と説いているお経がこの『阿弥陀経』です。
 ちなみに、私たちが普段お唱えしている『法華経』を翻訳した方がこの、『阿弥陀経』も翻訳しています。

 脱線ついでに、もうひとつ。江戸時代の死刑囚は、その刑執行の前に、唱題したそうです。
念佛→南無阿弥陀仏→浄土→死
唱題→日蓮聖人→龍ノ口法難→生
というロジックだとか(大分昔に聞いた話しなので、典拠はわかりませんが)。

 脱線した話を元に戻します。そもそも「『念佛』=『南無阿弥陀佛』」ではありません。が、「佛(=阿弥陀佛)を念ぜよ」という意味で「念佛」と言っている(布教している)「南無阿弥陀佛」を唱える人たちが主流派であったため、このように根付いたようです。

 実際、昨晩、この法話の準備をしていたところにかみさんがやってきて、(「念佛」と大きく書いた)この紙を見て、「何?宗旨替えするの?」と聞いてきたくらいです(会場笑)。

 じゃあいつからそうなのか。よくわかりません(苦笑)。ですが、日蓮聖人も「念佛」を「南無阿弥陀仏」という意味で使ってらっしゃいます。


 例えば、先ほど奉読致しました御妙判『諸宗問答鈔』の一節、
「次に念佛は是浄土宗所用の義也。此又権教の中の権教也。譬ば夢の中の夢の如し。有名無実にして其実無也。一切衆生願て所詮なし。」といった具合です。

 なお、これは「阿弥陀さんが悪い」と仰っているのではなく、最も大事な教えである『法華経』をないがしろにする、時の他宗僧侶達に、「間違った教えを弘めるな」と仰っているのです。ここのところ、御注意下さい。


 その日蓮聖人が、寺泊の滞在されたときのことが、繰り弁(くりべん:日蓮宗の伝統的な法話方法)で語られております。数年前の開山会で、柏崎妙興寺御住職宮澤順亮上人がお話し下さったので、覚えている方もいらっしゃるかも知れません。また、一昨年、池上本門寺のお会式へお参りに行った先、秋田の山口顕辰僧正が日蓮聖人の御生涯を語れました。あれは広義の繰り弁と言ってよいでしょう。

 史実的なことはさておき、「昔の人は、こういう話しを聞いて信仰を深めたのだ」と言った程度に御理解頂ければ幸いです。


繰り弁:宗祖佐渡御渡海

 高祖日蓮大聖人、文永八年十月の十日。警固の役人を初めとして、日興、日向、富木(とき)播摩守種継公の使者、又日朗上人の御母 妙一尼御前、熊王四郎の方々が、お見送りを致しまして、相州依智にある本間の館を御発足に相成りました。

 御道中の事はさて置きまして、廿一日に越後の寺泊と云ふ処に御着に相成りました。何方(どちら)も御案内の如く、冬期は総(す)べて海の荒れるものでありまして、殊に北海の荒海、難風で以て、佐渡に参りまする渡海船(とかいぶね)は一隻も出ません。そこで止むなく、石川右衛門吉広の宅に於て、御船侍を遊さるる事が頂度七日間。処が宿屋の下女、下男を初めとして、番頭丁稚に至る迄
『坊様であり乍ら、念佛無間、禅天魔等と諸宗を悪口する悪るい坊主ではありませんか。朝の手水も、汲み置きの冷たい水、なに冷水冷飯で沢山だい』
と、ケンもホロロに当りますから、石川右衛門吉広は、下女下男を制しまして、
『佐渡ヶ島の御流罪とは申せ、世上の罪咎のある御方ではない。朝はお湯を汲んで差上ろ。なるべく暖い御飯。不都合のない様に致せ』
と総べてに注意を払います。夫れは其の筈。七日間の御滞在中に、人目を忍んで一族の者は、御教化を蒙(こうむ)り、表は念佛宗なれども、内心は法華経の信者。

 サテ廿七日と相成りますると、順風に相成りまして、海上は至って穏かでありますから、今日は御出船と云ふ事に定まりました。処が日興、日向は佐渡ヶ島迄、御供を申し上げとう御座ると、御願いを遊ばし、又富木様の御使者は
『主人申しまするには、大聖人の御住家迄見届けて帰る様にと。主人の命令でありますれば、何卒佐波迄、お供の儀お許し下され度(た)し』
と、皆一同が吾れも吾れもと、御供を願ひ奉る。
『各々一同の願ひは尤もなれど、日蓮は、お上の召捕人。大勢の者を連れて、佐渡へ参ったと申されては、鎌倉方へも恐れあり、是非とも、之れより帰られよ』
『御仰せには御座りますれども、是非お供の儀お許し下され度(た)し』
大聖人、万斛(ばんこく)の涙を、胸に湛へさせられ給ひ、
『日本六十余州、島二つの中に、五尺に足らざる身一つ、置き処なき日蓮を、かく迄思ひ呉れる孝心、日蓮生々世々忘れ申さず、過分に存ずるぞ。此の大難は今初めて驚くべきに非ず。大聖、釈迦牟尼如来、勧持品廿行の経文には、数々見擯出、と説(とか)せ給ふ。
然るに此の日蓮は、弘長の元年には伊豆の伊東、今度此の度は佐渡ケ島、此の数々の二字は恐らくは、天台伝教も身に読み給はず、日蓮一人之を読めり。されば八十万億那由陀の菩薩の代官として、諸佛菩薩に加庇を蒙(こうむ)るものなり。
日蓮の弘通が法華経の金言に符合する以上は、やがて赦免の折を得て、再会する事もあらん。法の為、国の為めに、身命を愛されよ。思い廻(まわ)らせば、日蓮は東夷(とうい)東条安房の国旃陀羅が家に生れ、漁師、すなどりをして果てなん身を、法華経の御故に、佐渡ヶ島へ流さるると云は、石を以て、黄金に替へるも同様、各々歎(なげ)く可(べ)からず、悲しむ可からず。早々国元に帰り、師匠道善御房を始め、鎌倉の弟子檀那一同へ、此の趣(おもむ)きを以って語り伝へ給(たま)はれかし。イザさらば』

 生木の枝を割くが如きの御別れ、かくて佐渡ヶ島松ヶ崎へ御着、塚原三味堂へ御入りで御座ります。

(注2より。現代では避けたい言葉と指摘される可能性のある表現もありますが、そのままにしてあります。御了承下さい。)


 文字通り命がけで日蓮大聖人がお弘めになられたこの法華経・お題目を信仰することによって、佛教徒としての自覚を持ち、この世で佛になる=安らかな境地を得ることをお願い、解説の行とさせて頂きます。御聴聞おつかれさまでした。

参考文献など
注1:井上四郎編『訓読妙法蓮華経并開結平楽寺書店版』平楽寺書店、1957、ISBN4-8313-0195-7 C0015
注2:沼田行正編『日蓮大聖人御一代説教(クリ弁)全集第一巻』本門社1969pp.233-235
平成26(2014)年春季彼岸会法話より

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