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気づく
…雪…
今シーズンは、とても降りました。ご承知の通り、例年ですと、一度降るとしばらく降らず、そうこうしているうちに潮風が溶かしてくれたものです。
ところが、今シーズンは違いました。降った雪の上に、さらに降り積もる。降っては積もり、降っては積もりの繰り返しです。雨ならばザーザー、風ならばゴーゴーと音がするのでわかります。ところが、雪はしんしんとは音がしないんですよね。当然と言えば当然なのですが、驚かされました。朝起きて玄関開けると、雪がひざくらいまである。そんなことが幾度もあった今冬でした。
普段は、「寺泊は風が強い(荒れる)」と風を嫌がる傾向がありますが、その風のお陰で雪が早く消えていたことに、気づきました。
もっと申せば、荒れていたからこそ、お祖師さまも七日間寺泊に留まられたのです。この風がなければ、せいぜい一泊して佐渡へと出立されたことでしょう。
荒れる風も「ありがたい」ことに気づいたシーズンでした。
…日蓮聖人の『寺泊御書』…
さて、そのお祖師さま。みなさんは、どのような印象を持たれますか。(間)
お祖師さまが活躍した時代は、南無阿弥陀仏全盛でした(もちろん、そうでない方もいらっしゃいましたが)。そんな中に、「いや、やはり、南無妙法蓮華経だ!」と主張された方です。今と違い、篤い信仰も持った方が多くいた時代のこと。
ご承知の通り千葉でお生まれになられたお祖師さま。ご修行から千葉へと戻り、最初のご法話で「法華経は素晴らしい。みんな阿弥陀様を信仰しているが、そんなのやめなさい」と主張されました。「きっと有難い阿弥陀様のお話をされるのだろう」と期待していた聴衆は、怒り狂わんばかりに、お祖師さまを非難されました。
そのようなことにもへこたれず、当時の首都であります鎌倉の道にお立ちになり、「南無妙法蓮華経と唱えなさい」と訴え続けるのです。他宗の怒りを買い、お住まいを焼かれてしまいます。今でもそうですが、当時でも、放火は重罪です。にもかかわらず火を着けてしまったと言うことから、当時の反感が如何に強かったかということが推し量られることでしょう。
そして、龍ノ口にて首を刎ねられようとするところを危機一髪、命を永らえ、佐渡へと流罪になられる。御年50歳のことです。
寺泊に着いてみたら、船が出せないほど海が荒れている。かつて過ごした千葉や鎌倉とは違い、一面鉛色。佐渡に無事渡りつくのかすら危うい。
そんな状況だったら、みなさんはどう思われますか。私だったら、「正しい教えを弘めようとしているのに、なんでこんな目に遭わなければならないのだ」と情けない状況になること間違いなしです。
ところがお祖師さまは違いました。
寺泊に着いたのが10月21日。その翌日、22日に書かれましたお手紙が『寺泊御書』です。今日は、その一部分のみご紹介申し上げますです。
『今月は十月也。十日、相州愛京郡依智(えち)の郷を起つて、武蔵の国久目河(くめがわ)の宿に付き、十二日を経て越後の国寺泊の津に付きぬ。ここより大海を亘(わたり)て佐渡の国に至らんと欲す。順風定まらず、その期を知らず。道の間の事、心も及ぶことなく、また筆にも及ばず。ただ暗に推(お)し度(はか)るべし。また本より存知の上なれば、始て歎くべきにあらずと、これを止(とど)む。
(現代語訳)
今月(文永八年十月)十日に、相模国愛京郡依智の郷(現在の神奈川県厚木市依知)の本間重連の役宅を出発して、武蔵国久目河の宿(現在の東京都東村山市)に着き、それより十二日間の旅をして、越後の国、寺泊の津に着いた。これからいよいよ日本海の大海原を渡って佐渡の国へ向かおうとしているが、順風が定まらないため、いつ渡るかという時期の見当がつかない。依智から寺泊への道中のことは、思案している余裕などなく、また筆に書くこともできない困難なものであった。ただ御賢察をお願いするばかりである。またすべての艱難はもとより覚悟の上なので、いまさら嘆くべきではないので、申し述べるのはやめておく。
(中略)
この入道、佐渡国へ御供なすべきのよし承りこれを申す。然るべけれども用途と云い、かたかた煩いあるの故にこれを還(かえ)す。御志始てこれ申すにおよばず。人人にかくのごとく申させたまえ。ただし囹僧(れいそう)等のみ心に懸り候。便宜(びんぎ)の時、早々これを聴かすべし。穴賢穴賢
十月二十二日酉の時
(現代語訳)
貴殿が差し向けてくれたこの入道は、貴殿の言い付け通りに、佐渡の国まで同行したいと言うけれども、費用の事もあり、また気の毒でもあって、色々とめんどうなことがあるので帰ってもらいます。貴殿の暖かいお気持ちはいまさら改めて申し述べるまでもないが、一同の者にもよく申し伝えて下さい。ただ牢に入れられている日朗らの弟子のことが気にかかります。機会があったならば、ぜひとも早く安否について聞かせて下さい。
十月二十二日酉の時(午後六時頃)
法華経こそが一番大事なお経であると確信されたお祖師さま。ところが、当時の主流は違いました。「法華経が良いのはわかるけど、難しすぎるからやめようよ」という主張の方が多かったのです。鎌倉新仏教のなかでも後発だったお祖師さま。大分強い言葉で他宗を批判されました。時代的な背景やその趣旨を理解していないと誤解してしまいがちですが、それはさておき、先ほどみなさまに印象をお伺いしましたが、非常に芯の強い、激しい方のような印象を、みなさんお持ちになられているのではないでしょうか。
ところがどうでしょうか。『寺泊御書』には、恨みつらみもなく、排他性も攻撃性もなく、「依知から寺泊に来るまでのことは、敢えて書かない。自分のことは構わない。それよりも、一緒に捕まり、牢屋に入れられている弟子のことが気がかりだから、安否を教えてほしい」とあるのです。
如何でしょうか。お祖師さまの慈愛がわかる一節ではありませんか。
私自身、曾祖父がどんな人間だったか、よくわかりません。むしろわかる方の方が少ないのではないでしょうか。そんな中、こうしていまから700年以上前の方、そのお祖師さまの一面をこうして知ることができる。しかもそれは、あの祖師堂、銅像の建つ地で書かれた。これはもう、みなさん、誠にありがたい限りではありませんか。
お祖師さまにご縁のある寺泊にいられる幸せにお気づき頂ければ何よりです。
…衣裏繋珠…
さて、その「法華経」。本日も方便品第二や如来寿量品第十六の一部をみなさんと一緒にお唱えいたしました。
法華経(五百弟子授記品)には、次のようなたとえ話があります。
ある人が親友の家でお酒を飲んで酔っ払って寝てしまいました。当の親友は公用出張があったため、その寝ていた親友の服の裏に高価な宝石を縫い付け、起こさずに出張へと旅立ちました。当の本人は酔っ払って寝ていたため、気づきません。目が覚めて起き、彼はよその国へと出発します。
彼は、着るものや食べるものに大変困りましたが、それらをちょっとでも手に入れられればそれで満足する、そんな生活を送っていました…少欲知足と申せばいいでしょうか…。
暫くして後、親友に再会します。その親友が次のように声をかけました。「えっ、…この「えっ」もお経に書いてあるんですよ…大丈夫か。着るものや食べるもののために、なんでそんな苦労しているんだい。君が今後苦労しないようにと、ウチで一緒に呑んだときに、あなたの服の裏に高価な宝石を縫い付けておいたのに。今もそこにあるじゃないか。君がそれを知らないで苦労していたなんて。君、今この宝物をすぐに換金しなよ。これからは、君の心のままに、もう貧乏に苦しめられることはないから」。
「目が覚めたとき、ちゃんとわかるように、目の前に置くとかメモするとかすればいいのに…」と言うところはちょっとおいておいて…。
宝石を縫い付けた親友がお釈迦様、衣食に苦労していたのが私たち、宝石が教えを、それぞれあらわしています。
このたとえ話より前の部分で、法華経以前のお経で「成佛不可能」と書かれていた人たちの成佛が、「実は可能だ」と言うことが示されます。それを聞いた「佛になれない」と思っていた人たちが、「自分達も佛になれるのだ」という喜びを以て、このたとえ話をしたのです。
お釈迦様は私たちを教え導いて下さっていた。最初に得た境地を以て、完成したと思い込み、以後努力しなかった。お釈迦様の力を自分の力と思い違いしていた。そのため最終的な境地には至れないと思っていた。
ところがそれが間違いで、持っていないと思い込んでいた仏様になるための種を実は持っていたことに気づき、とても喜んでおります。…と言った感じです。
佛になれないと思っていた人々が、実は佛になれるんだと気づくのが法華経です。
知らないこと、間違えることは恥ずかしくありません。知ろうとしないこと、間違えても正そうとしないことが恥ずかしいことなのです。知ろうとするには、正そうとするには、「気づく」ということが重要なのです。みなさんの生活では如何でしょうか。気づいておりますでしょうか。
この法華経は「気づく教え」なのです。
みなさんがより良い日々を過ごせるために、さらなる法華経・お題目信仰をお願い申し上げ、解説の行とさせて頂きます。ご聴聞おつかれさまでした。
平成24(2012)年春季彼岸会法話より
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