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信心の相続を
このたび子供が生まれました(会場から拍手)。いままで「後継ぎ」「後継ぎ」とちやほやされていたのに、すっかりその注目が奪われてしまいました。弟や妹が生まれ、親御さんや祖父母の愛情を一身に受けていたものを奪われた兄姉の気持ちがよくわかりました(笑)。
さて、今日のお会式。そもそもは、日蓮聖人を偲び、亡くなられた10月13日前後に行われるのが一般的です。法福寺では、日蓮聖人が佐渡に発たれた日、10月27日にいままで行っておりましたが、お休みの日の方がお参りしやすいだろうと、今年から11月第2日曜日にした次第です。
なお、11月27日午後1時半より祖師堂でのお会式法要がありますので、そちらも是非お参り下さい。
ところで、みなさんは「死んだものが生き返ることはありますか」と聞かれたらなんと答えますか。
(約半分程度の方が「その通り=生き返る」と答える)
これは、誠に意地悪な質問でした。どういう状態が死なのか、どういうことを生き返るというかはっきりさせていないからです。
目の前の人を包丁で刺し、殺してしまえば…もう生き返ることはありません。しかし…
死に関する研究、教育をされている大学教授がいらっしゃいます。彼は小中高校生に「一度死んだ生き物が生き返ることがあると思うか?」というアンケートをとりました。それによると、中学生約400人の半分弱、小中高校生約2000人のうち5人に1人が「生き返る」もしくは「生き返ることがある」と思っているそうです。
別の大学教授が「死んだ人は決して生き返らないですか?」というアンケートをとったところ、小中学生約2700人のうち5人に1人が「いいえ」つまり「生き返る」と答えました。
ある県の教育委員会でも「死んだ人が生き返ると思うか?」というアンケートをとりました。それによると、その県下児童生徒のうち約3000人のうち6人に1人が「はい」と答えたそうです。
いずれのアンケートも、「生き返る」と思っている割合が、小学校高学年で一旦減るのですが、中学生になると増えます。これを「中学生になると一度理解した『死』の概念が揺らいでしまう傾向がある」とか「予想外の結果」と分析しています。
確かに医学的には「死んだ人は生き返らない」が正解です。たまに「生き返った」という話を聞きますが、それを医学では「死んでいなかった」という分類に入れるからです。
また、先ほどの教授の講義を受けた主婦が自分の子供に死の怖さについて語ったところ、小1の次男が「(死んだら)もう一度やり直せばいいんだよ。スタートボタンを押して。(そのボタンは)心臓です!ハイ、スタート」と叫んだそうです。
大学教授や教育委員会の方々の危惧はもっともで、命について時間を費やして教える必要を痛感致します。「死」について教育しないと大変なことになる、との主張はうなずけます。命はたいせつなもので、奪ってしまったら元には戻せないのだ、ということは充分理解させる必要があることでしょう。
しかし、ここで疑問に思うことは、どのアンケートも「生まれ変わる」と考える子供を考慮していないことです。県教委の生徒回答には「死んでも心の中に生きていると思う」「人の魂は死んでいないと思う」という意見がありました。
調査した大人たちは、「生まれ変わり」を信じず、信じる子供をも問題視しているように感じます。さきほどのお二人の教授を紹介した記事を書いた某雑誌記者は、生まれ変わりを否定的にとらえています。
記者は、中学生の半数、小中校生の2割が「生き返る」または「生き返ることもある」と思っていることに対し、「信じられない数字だ」と書きました。
あの世があるのか、魂が存在するのか、「わからない」というところが百歩譲ったところです。信じない人に対し彼らが言うであろう「学術的な」証明はしようがないからです。ただ、我々少なくとも日蓮宗の信徒、広く言えば日本のほとんどの仏教の信者は、その存在を信じているわけです。
話しを戻しますが、このように、信心を持たないことを当然と思い、むしろ宗教を持つことを否定的に捉え、相手の心をおもんぱかろうとしない人が、大学教授や教育関係者、記者といったいわゆる知識層に平然と存在するのが現状です。このような状態でいいのでしょうか。
もちろん、そういう人ばかりではなく、知識層=信心を持たない、という等式は間違いでしょうが。
某新聞社の世論調査では、4人に3人が「宗教を大切だと思わない」と答えますが、「神仏にすがりたい」と思う人は過半数にのぼります。
某飲料メーカーの調査によると、「精神的な充足が幸せに不可欠」とする人が多くいるのですが、ほとんどの人は、宗教にそれを求めません。
50代後半の主婦は、その投書で「葬式でお布施や戒名料をたくさんとられ、借金をする羽目になった。自分の時は、既存の価値観にとらわれずに送ってもらいたい」と主張します。遺族が納得の出来る説明をしない僧侶と、取り急ぎ形を求める遺族。日常の関わりがなく、また相互理解がないのが原因なのではないでしょうか。
多くの大人には、すでに信心が相続されていません。
ぜひ、みなさんにはお子さん、おまごさんへの信心の相続をおねがいしたいのです。
…また、できますれば、お寺との関係作りもお願いしたいのです。これは、法福寺に限ったことではなく、誠意あるお坊さんなら宗派を問わず誰しも「お檀家さんとの日常的な関係作りをしっかりしたい」と思っています。お葬式の時に初めて会う、お葬式の時しか呼ばれない、寺に来てくれない、というのは、それぞれ事情もあるでしょうが、なるべくならば避けたいのです。
これは絶対に間違いありません。もし、よそのお寺のお檀家さんで「うちのお坊さんに『そんなのめんどくさい』と言われた」という方がいましたら、…そのお寺のお檀家さんをやめて、法福寺のお檀家さんになるよう、勧めて下さい(会場笑)。
話しを戻しますが、いまからでも決して遅くはありません。ある調査によると「お金よりも大事なものがありますか」という質問に8割の子は「そう思う」と答えています。その気持ちのまま信心を持った大人になれば、精神的にも充足した、他人の気持ちをわかる立派な人になるでしょう。
先ほどお唱えしました日蓮聖人のお言葉「此御本尊も只信心の二字にをさまれり」にもあるように、信心が大切なのです。
信心を持って、日々過ごすことが大事なのです。
それによって法華経の譬諭品第三に書かれている「今此の三界は 皆是我有なり。其の中の衆生は 悉く是れ吾が子こなり 而も今此の処は 諸の患難多し 唯我一人のみ 能く救護をなす」…この世界は仏様に守られていて、我々はすべて仏様の子である…ことが理解頂けるはずです。
どうか、御自身の信心をお子さん…特に「ほとけごと、おてらごとは、おじいちゃん、おばあちゃんの役目と思っているお子さん…やお孫さんに相続して下さいますよう、お願い申し上げます。
平成18(2006)年お会式法話より
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