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寺泊御書 目次
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書き下し文
今月〈十月也〉十日、相州愛京郡依智(えち)の郷を起つて、武蔵の国久目河(くめがわ)の宿に付き、十二日を経て越後の国寺泊の津に付きぬ。ここより大海を亘(わたり)て佐渡の国に至らんと欲す。順風定まらず、その期を知らず。道の間の事、心も及ぶことなく、また筆にも及ばず。ただ暗に推(お)し度(はか)るべし。また本より存知の上なれば、始て歎くべきにあらずと、これを止(とど)む。
法華経第四に云く、しかもこの経は如来の現在すらなお怨嫉(おんしつ)多しいわんや滅度の後をや。第五の巻に云く、一切世間怨(あだ)多くして信じがたし。涅槃経三十八に云く、その時一切の外道の衆ことごとくこの言を作さく、大王○今はただ一りの大悪人有り瞿曇沙門(くどんしやもん)なり。○一切世間の悪人、利養のための故にそのもとに往き集りて眷属(けんぞく)となりて善を修することあたわず。呪術力の故に迦葉(かしよう)および舎利弗(しやりほつ)・目犍連(もつけんれん)等を調伏(じようぶく)す。この涅槃経の文は、一切の外道がわが本師たる二天・三仙の所説の経典を仏陀に毀(やぶ)られて出すところの悪言なり。法華経の文は仏を怨となすにはあらず。経文天台の意に云く、一切の声聞・縁覚ならびに近成(ごんじよう)を楽(ねが)う菩薩等云云。聞かんとほつせず、信ぜんとほつせず、その機に当らざるは言を出して謗ることなきも、皆怨嫉(おんしつ)の者と定めおわんぬ。在世を以て滅後を推すに、一切諸宗の学者等は皆外道(げどう)のごとし。彼らが云う、一大悪人とは日蓮に当れり。一切の悪人これに集まるとは、日蓮が弟子等これなり。かの外道は先仏の説教流伝の後、これを謬(あやま)りて後、仏を怨となせり。今諸宗の学者等もまたまたかくのごとし。所詮、仏教に依て邪見を起す。目の転ずる者、大山転ずとおもう。
今八宗十宗等多門の故に諍論(じようろん)をいたす。涅槃経第十八に贖命重宝(ぞくみようじゆうほう)と申す法門あり。天台大師の料簡(りようけん)に云く、命とは法華経なり。重宝とは涅槃経に説く所の前三教なり。ただ涅槃経に説く所の円教はいかん。この法華経に説く所の仏性常住(ぶつしようじようじゆう)を重ねてこれを説て帰本せしめ、涅槃経の円常を以て法華経に摂す。涅槃経の得分はただ前三教に限る。天台の玄義の三に云く、涅槃は贖命の重宝なり。重て掌を抵(うつ)のみ文。籤の三に云く、今家(こんけ)引く意は大経の部を指して以て重宝となす等云云。天台大師の四念処と申す文に法華経の雖示種種道の文を引て、先四味をまた重宝と定めおわんぬ。もししからば、法華経の先後の諸経は法華経のための重宝なり。
世間の学者の想(おもわく)に云く、これは天台一宗の義なり。諸宗にはこれを用いず等云云。
日蓮これを案じて云く、八宗十宗等、皆仏滅後よりこれを起し論師(ろんし)・人師(にんし)これを立つ。滅後の宗を以て現在の経を計るべからず。天台の所判は一切経に叶うに依て一宗に属してこれを弃(すつ)べからず。諸宗の学者等、自師の誤を執する故に、或は事を機に寄せ、或は前師に譲り、或は賢王を語らい、結句、最後には悪心強盛(ごうじよう)にして闘諍を起し、失(とが)なき者をこれを損(そこのう)て楽となす。
諸宗の中に真言宗殊に僻案(ひがごと)を至す。善無畏(ぜんむい)・金剛智(こんごうち)等の想(おもわく)に云く、一念三千は天台の極理(ごくり)・一代の肝心(かんじん)なり。顕密二道の詮たるべきの心地の三千をばしばらくこれを置く。この外、印と真言と仏教の最要等云云。その後、真言師等事をこの義に寄せ、印真言なき経経をばこれを下す。外道の法のごとし。或義に云く、大日経は釈迦如来の外の説なりと。或義に云く、教主釈尊第一の説なりと。或義に、釈尊と現じて顕経を説き、大日と現じて密経を説くと。
道理を得ずして無尽の僻見これを起す。譬えば乳の色を弁えざる者、種々の邪推を作(なせ)ども本色に当らざるがごとし。また象の譬のごとし。今、汝等知るべし。大日経等は法華経已前ならば華厳経等のごとく、已後ならば涅槃経等のごとし。
また天竺の法華経には印・真言有れども、訳者これを略し羅什は妙法経と名(なづ)け、印・真言を加えて善無畏は大日経と名づくるか。譬えば正法華・添品法華・法華三昧・薩云分陀利(さつうんふんだり)等のごとし。仏の滅後、天竺においてこの詮を得たるは竜樹菩薩。漢土において始てこれを得たるは天台智者大師なり。真言宗の善無畏等・華厳宗の澄観(ちようかん)等・三論宗の嘉祥(かじよう)等・法相宗の慈恩等、名は自宗に依れども、その心天台宗に落たり。その門弟等この事を知らず。いかんぞ謗法の失を免んや。
或人(あるひと)日蓮を難じて云く、機を知らずして麤(あらき)義を立て難に値うと。
或人云く、勧持品(かんじほん)のごときは深位の菩薩の義なり。安楽行品(あんらくぎようほん)に違すと。
或人云く、我もこの義を存すれども言わずと云云。
或人云く、ただ教門ばかりなり。理は具(つぶさ)に我これを存すと。
卞和(べんか)は足を切らる。清丸(きよまろ)は穢丸(けがれまろ)と云う名をたまいて死罪に及んと欲す。時の人これを咲(わら)う。しかりといえども、その人いまだ善名(よきな)を流さず。汝等が邪難もまたしかるべし。勧持品に云く、諸の無智の人有つて悪口罵詈(あつくめり)す等云云。日蓮この経文に当れり。汝等なんぞこの経文に入らざる。及加刀杖者等と云云。日蓮はこの経文を読めり。汝等なんぞこの経文を読まざる。常在大衆中欲毀我等過(じようざいだいしゆうちゆうよつきがとうか)等云云。向国王大臣婆羅門居士(こうこくおうだいじんばらもんこじ)等云云。悪口而顰蹙数数見擯出(あつくにびんじゆくさくさくけんひんずい)。数数とは度々なり。日蓮擯出衆度(ひんずいたびたび)。流罪は二度なり。
法華経は三世説法の儀式なり。過去の不軽品は今の勧持品。今の勧持品は過去の不軽品(ふきようぼん)なり。今の勧持品は未来、不軽品たるべし。その時は日蓮はすなわち不軽菩薩たるべし。
一部八巻二十八品。天竺(てんじく)の御経は一須臾(しゆゆ)に布くと承わる。定て数品あるべし。今、漢土日本の二十八品は略の中の要なり。正宗はこれを置く。流通に至て宝塔品の三箇の勅宣は霊山虚空の大衆にこうむらしむ。勧持品の二万・八万・八十万億等の大菩薩の御誓言は、日蓮が浅智に及ばざれども、ただし恐怖悪世中(くふあくせちゆう)の経文は末法の始を指すなり。
この恐怖悪世中の次下の安楽行品等に云く、於末世等(おまつせとう)云云。同本異訳の正法華経に云く、然後末世(ねんごまつせ)。また云く、然後来末世(ねんごらいまつせ)。添品(てんぼん)法華経に云く、恐怖悪世中等云云。
当時当世三類の敵人(てきにん)はこれあるに、ただし八十万億那由他の諸菩薩は一人も見えたまわず。乾潮(ひたるうしお)の満ちざる、月の虧(かけ)て満ちざるがごとし。水清まば月を浮べ、木を植えれば鳥を棲しむ。日蓮は八十万億那由他の諸の菩薩の代官としてこれを申す。かの諸の菩薩の加被を請(うけ)るものなり。
この入道、佐渡国へ御供なすべきのよし承りこれを申す。然るべけれども用途と云い、かたかた煩いあるの故にこれを還(かえ)す。御志始てこれ申すにおよばず。人人にかくのごとく申させたまえ。ただし囹僧(れいそう)等のみ心に懸り候。便宜(びんぎ)の時、早々これを聴かすべし。穴賢穴賢
十月二十二日酉の時
日蓮 花押
土木殿
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